自然とじゅくとワタシ

山口からなぜか長野へ。個人塾を運営しつつダブル(トリプル?)ワーク。まわりのしっかりした人々に囲まれ、30歳「夢見る夢子」なんとか今日も生きる。じゅく、接客、家族、フラダンス、自由なワークスタイル、バンクーバー、ワーホリ

【自由な生き方について】「多少の損はいとわない」が、人を生きやすくさせる


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富士五湖

 

自分の価値を安売りしない、ということと、

自分が損をした分を取り戻すということは、

似ているようでちょっと違う。

 

 

 

自分の価値を安売りしないということ

 

もう「価値を安売りしない」なんて

色んなところで言われているけど、

 

自分が提供する商品やサービスをそれ相応の対価で販売すること。

それは大事。

 

それ相応の価値だったら100円でも100万円でもいい。

重要なのは、値段は付けるには、売る側が価値を判断できること。

その値段を見て、買う側はそれだけの価値があるかどうかを吟味し購入する。

次第に、その対価を払って買いたい人が集まってくる。

 

「安くしないと売れないんじゃないか」と考えるのはナンセンスで。

安く売れば売るほど、赤字になるのは目に見えるし、商売は続かない。

 

相応の対価を払う人、

買い手の価値観に共感する人をコツコツ集めれば、

商売の道は開ける。

 

自分と見合ってない分を取り戻すことの怖さ。

 

で、ここで怖いのは、

自分が「損をした」と感じた時、

それを取り戻そうとしすぎることだ。

 

「自分や自分の提供するものに価値を付けること」

「自分がした損、被った損を取り戻そうとすること」

 

その行動の前提は実は同じで、

「自分や、自分が生み出すものには、には一定の価値があるということ」

  

けれどその2つの行動は大きく違う。

 

もちろん、自分の権利の正当性は主張すべき。

 

もちろん、 

 

自分の行動が軽んじられて、大して感謝されなかったり、

自分には落ち度がないのに、不本意な被害を受けたり、

またはこれぐらいしたから、相手もこれぐらいして当然だよねと考えたり、

 

生きていればいくらでもあることだ。

自分が傷つけられた、被害を受けた、これぐらいもらって当然である

と感じる事自体は間違いではないし、

それ相応の「返すべきものをもらう」という姿勢は必要だ。

 

「この行動は大変だったけど、大して感謝されなくて悲しい」

「私はこれだけの被害を受けたから、弁償してほしい」

「お互いにこれだけのことはやろうよ」

そういうことは悪くないし、伝えるべきだ。

 

だけど。

 

 

最後の1パーセントまで追いかけるかどうか

 

だけど。

 

80パーセントを返されても、20パーセントは放置されたまま。

そのひとかけらを、「ま、いいや」と思えるかどうか。

 

それは、損をしろ。

ということではなくて、

それくらいの損は、生きてればあるよね、

と吹っ切れることで、

追いかけることのプレッシャーから

自分から、

解放されるのだ。

 

そして、多少の損をしてもいいや、と思える人は

きっと他の人とは付き合いやすくなるのだ。

 

損をしている場面を見た周りの人は、

この人のために、何かしてあげようと

思ったりもする。

 

損をすることで、何か思いがけないものを得たりするのだ。