自然とじゅくとワタシ

山口で生まれ、兵庫、東京、長野、そしてバンクーバーへ!しっかりした人々に囲まれ、30歳「夢見る夢子」なんとか今日も生きる。じゅく、接客、家族、フラダンス、自由なワークスタイル、バンクーバー、ワーホリ。

【つぶやき】子どもがどうして自殺まで考えてしまうのか。

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その子は、学校に行き続けて大丈夫なのか?

 

学校に行くことが正しい、

というよりか、

学校に行っていることでなんとなく安心する部分もある。

(普通に行っているから大丈夫)

だから、見過ごしてしまうこともある。

 

 

 

その子が表面的には大丈夫そうに見えていても、

その深い所で苦しんでいる部分があり、

本人がそれをうまく解放できていないとしたら、

処理しきれないものが中でたまっている可能性もある。

 

どこで、助けるか? 

 

もしくは助けを求められても、

どこから助けるべきかと悩む時もある。

 

一度「学校に行きたくない」と言われてみたとする。

その一度をどう捉えるかも、改めて考えれば判断が難しい。

一回目だし、今回は行かせてみるべきか?とも考えられるし、

それが、唯一のSOSだったとすれば、行かせるのやめさせよう、とも考えられる。

判断基準ははその子の性格、状況、他のポイントもあるだろう。

 

ヒントは本にもネットにもあるが、正解は載っていない。

自分か、もしくは自分の子供が、決めるしかないのだ。

 

 

「苦しみの感じ方は、人それぞれある」

 

私は子どももいないし、専門家でもないため、

自分の子どもの頃の経験からひも解くことしかできない。

経験から、「精神的な苦しみ」について考えていく。

 

幼いころの私は、私は苦しみは比較できるものと考えていた。

例えば、

私は両親が仕事で忙しく、

家に帰っても夕飯を作る時も、

母に会話をとりあってもらえず、

いつもどこがで寂しい気持ちがあった。

 

しかし、

6歳上の姉の現状はもっとひどく、

両親はもっと忙しかったらしく、

参観日や親子レクにすらほぼ全て親が来た記憶が無いらしい。

(私の時は、まだ時々のぞきにきていた)

 

姉にはよく

「参観日も来てもらえて、みなみはいいなあ」

と言われていた。

 

ただ事実は受け止められた。

ああ、そうなんだって。

だけど、どこか言葉にはできない、わりきれなさ。

 

 

 

どう感じたかは、その人しか分からない。

 

もし、世の中に感情の量を量れるてんびんがあるとすれば、

姉の寂しさの方が、私の寂しさよりも重いかもしれない。

 

けれどそんな寂しさを量るてんびんは、この世に存在しない。

 

どんな色の、どんな重さの感情を味わっているかどうかは、

相対的には判断できないことなのだ。

 

本人がどう、その寂しさを感じているか、それだけが正解なのだった。

 

 

「あなたの気持ちが分かる」と簡単に言うべきじゃない

 

よく上のような、諭し文句がある。 

 

私と姉は、

この言葉の攻撃力、無責任さについて、

よく話していた。

 

この言葉は相当注意して使うべき言葉だし、

むしろ、使わない方がいい。

自分の子供なら、なおさらだ。

 

もし、

母や父に

この言葉を安易に使われたり、

多用されたら、

生きていけなかったと思う。

「私の何を知って‼」

と、ものすごく反抗したかもしれない。

 

理由は明快で、

「結局、他人に自分の気持ちは、永遠に正確に分からない」

からだ。

 

子どもも所詮、他人。

親も所詮、他人。

 

親にだけは、自分の気持ちを決めつけないでほしい。

 

ただ親にして欲しいのは、

感情を「察して」、「尊重する」ことだけだ。

 

その前提さえあれば、

議論があったとしても 

なんとか受け入れられた。

 

私の両親は、

人としての作法には厳しく言われたし、

たたき上げ自営業の人たちなので、私の甘さや弱さに困ったり、呆れたりもした。

けれど、最終的には、私の気持ちを尊重して、決めつけたりしなかった。

それでも何か言う時は、私自身の立場や気持ちやの命を守りたいときだけ。

 

そんな両親の助けを借りて、

姉の助けを借りて、

私は時に狭くて暗い世界に入っても、

なんとか抜けて、今に至る。

 

 

 おわり。

 


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富士河口湖にて。杜仲茶の天ぷら。ちょっと苦くて美味しい。