【つぶやき】今日は久しぶりにヨガしにいきました。「主観」について。
ども!じゅくの先生のみなみです。
私は数年前からヨガをときどきしています。
姉もヨガの先生してたし、地元のヨガもいってました。
が。
忙しさにかまけて、なかなかいけなかったヨガ。
昨日たまたま地元でクリパルヨガをしているまきえさんからメッセージをいただいて、多忙を理由にヨガは随分ご無沙汰。
Facebookを開き、まきえさんのクラスを確認すると
明日ある!
即、予約。ヨガでお腹の底まで空気を取り込み、吐き出し。体をのばす。すっかり元気になりました。
始まる前にクリパルヨガの「主観」を大事にする話。
クリパルヨガは、ヨガの中でも「主観」を大切にする。ものらしい。
先生の話のなか、「どうも日本に生きていると、主観は軽んじられやすいのではないか」と。
比較することが当たり前で、客観的であることを求められ、なんか「フツー」が求められ、ひいては、時に感情を殺すことや、ムリな自制を求められてくることもある。
80%の人が「それたいしたことないじゃん」と考えられることは、本人の気持ちがどうこうに関係なく、ガマンするべきだったり、自制するべき、となったりさ。
でもさ。
つらいんでしょ?って。
つらいって気持ちはその人しか感じられないし、それは誰も否定できない事実で。もっとそこに目を向けていいんじゃないかって。だって、人間共通の感情をはかるものさしなんてないわけだし、その人の感情はその人が大事にできないといけないし、又その人の感情を周りの人が尊重すべきなんだって思う。お互いに。
でもね。分かっててもね・・・相手の感情に寛容になる「実践」が難しい
分かっててもね、
無垢に主観を前面におしだされるとさ、「甘えてんじゃねえぞ( ゚Д゚)」とか言いたくなる。大人にも、子供にも。この瞬間、私の中にも「日本人の闇」があるのかな。と思う。みんなガマンしてるから、その人もガマンする義務なんてないのに。
生徒に対しても接するのも時にガマンがいる。たとえば、始まる時間にすぐに始められない子がいたりする。始まる時間が過ぎても、その子は「先生今日さ~」と、近況報告が始まる。
で、それが結構長いときもあるんだ!まいったこりゃ('_')
最初の頃は、「そろそろはじめちゃいな!」って言ったり、「もう時間やばしだよ!」っていったり。
涼しい顔をしながらも、(いやいや、この時間も授業料が発生しているんだから、勘弁してくれよお。早く教科書開いてくれよ)ともやもや。
でも、私が席をはずしても、まだその子はそわそわ。なかなかペンが動かないし、違う場所を見てぼーっとしたりして。また話し始めたりする。
冷静にその子の気持ちを考えてみた。その子からしたら「けっこうしんどい」のだ。「なかなか始められない」のだ。きっと。自分のタイミングがあって、そこにいくまでに時間がかかるのだ。
「切り替えな!」とビビらせるのはカンタンだけど、そんなこと(切り替えないといけないこと)本人が一番わかってたりもする。
それを切り替えさせるのが大人の仕事と言われるかもしれないけど、(社会を教える)もう学校で散々そんな生活させられてるわけで、私のじゅくでもそれをする意義あるのだろうかと思う。
最近言わないことにした「勉強はじめな!」
あえてその子がしゃべりたいなら、その洪水が止まるまでしゃべらせてみることにした。結局、その子のタイミングや、気持ちの流れがあるのかも。と。
肯定も否定もせず、ふんふんとただうなづく。
なんだかんだ、じゅくに来る子は、どこかで「そろそろ勉強やんなきゃ」みたいなのを思っていて、その中でよし、と思って(あきらめて?)勉強を始める。
そのタイミングまで、じっとこらえる。本人のことを監視し過ぎないように、別のことに関心があるように見せかけて、その子が始めるのをまつ。
どんな結果になるか分からないけど…
行動を強制させることは、あまり効果的でないということは経験上身をもって知っている。かといって、何も手を打たないわけにもいかない。
「そばでじっと待つ。(しかも待ってるように見せないで)」という手を打ってるわけだけど、これがどれほどの効果につながるか分からない。長期戦。
今のところは、その話したい子は話したいだけ話させて、スッと席をはずせば、なんとなくやり始める。(それでもドキドキしながらいつも様子をみている)
しばらく様子見だ。まるまる90分勉強を強制することだけが、いいことかは分からない。
おわり。
長野にきてから、今までの話(①~⑥まであります)