【自由な生き方について】「多少の損はいとわない」が、人を生きやすくさせる
富士五湖へ
自分の価値を安売りしない、ということと、
自分が損をした分を取り戻すということは、
似ているようでちょっと違う。
自分の価値を安売りしないということ
もう「価値を安売りしない」なんて
色んなところで言われているけど、
自分が提供する商品やサービスをそれ相応の対価で販売すること。
それは大事。
それ相応の価値だったら100円でも100万円でもいい。
重要なのは、値段は付けるには、売る側が価値を判断できること。
その値段を見て、買う側はそれだけの価値があるかどうかを吟味し購入する。
次第に、その対価を払って買いたい人が集まってくる。
「安くしないと売れないんじゃないか」と考えるのはナンセンスで。
安く売れば売るほど、赤字になるのは目に見えるし、商売は続かない。
相応の対価を払う人、
買い手の価値観に共感する人をコツコツ集めれば、
商売の道は開ける。
自分と見合ってない分を取り戻すことの怖さ。
で、ここで怖いのは、
自分が「損をした」と感じた時、
それを取り戻そうとしすぎることだ。
「自分や自分の提供するものに価値を付けること」
と
「自分がした損、被った損を取り戻そうとすること」
その行動の前提は実は同じで、
「自分や、自分が生み出すものには、には一定の価値があるということ」
けれどその2つの行動は大きく違う。
もちろん、自分の権利の正当性は主張すべき。
もちろん、
自分の行動が軽んじられて、大して感謝されなかったり、
自分には落ち度がないのに、不本意な被害を受けたり、
またはこれぐらいしたから、相手もこれぐらいして当然だよねと考えたり、
生きていればいくらでもあることだ。
自分が傷つけられた、被害を受けた、これぐらいもらって当然である
と感じる事自体は間違いではないし、
それ相応の「返すべきものをもらう」という姿勢は必要だ。
「この行動は大変だったけど、大して感謝されなくて悲しい」
「私はこれだけの被害を受けたから、弁償してほしい」
「お互いにこれだけのことはやろうよ」
そういうことは悪くないし、伝えるべきだ。
だけど。
最後の1パーセントまで追いかけるかどうか
だけど。
80パーセントを返されても、20パーセントは放置されたまま。
そのひとかけらを、「ま、いいや」と思えるかどうか。
それは、損をしろ。
ということではなくて、
それくらいの損は、生きてればあるよね、
と吹っ切れることで、
追いかけることのプレッシャーから
自分から、
解放されるのだ。
そして、多少の損をしてもいいや、と思える人は
きっと他の人とは付き合いやすくなるのだ。
損をしている場面を見た周りの人は、
この人のために、何かしてあげようと
思ったりもする。
損をすることで、何か思いがけないものを得たりするのだ。